2020年7月10日 (金)

53 会津若松城

鶴ヶ城とも呼ばれる。城の歴史は古く、南北朝期、蘆名直盛がこの地に黒川城を気づいたのが始まり。14代続いた蘆名氏を破って伊達政宗が入城するも、翌年豊臣秀吉の欧州征伐でこの地を追われる。代わりに藩主となったのが蒲生氏郷である。7層の天守閣、本丸などを内堀で囲み、二の丸、三の丸を作り高い城壁と深い堀をめぐらす大改修をしたのが秀吉期待の氏郷で名も若松譲と改めた。その後、上杉景勝や加藤嘉明)と変わり、嘉永20年に保科正之が藩主になり保科氏は松平に改名し松平容保で幕末をむかえる。戊辰戦争のときの白虎隊の悲劇で知られる。名門・蘆名氏(丸ノ内に三つ引き)から伊達氏(仙台笹)蒲生氏(対い鶴)上杉氏(上杉笹)加藤氏(下り藤)と名高い武将が続き、日本史上、屈指の名君と呼び声高い保科正之(平九曜)、そして最後は松平氏(三つ葉葵)が会津の藩主であった。

保科正之・・二代将軍・秀忠の妾腹の子であり、三代将軍・家光の異母弟、さらに家康の孫にあたる人物である。社倉を建て領民を保護し、儒学を好んだ。正之を表舞台に出したのは家光であり、手腕を買われ四代将軍・家綱にも仕えた。江戸城の天守は3度も建て直されていた。そして、3度目の天守は明暦の大火で焼失した。家継は天守再建を計画したが、江戸の町の再建が優先されねばいけないと判断し、天守は二度とそびえることはなかった。「眺望を楽しむだけの天守に材を費やすのは無駄」と提言した正之の言葉が大きな影響を与えたとされている。

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2020年7月 7日 (火)

52 月・月星紋

自然紋の中で最も多いのが月・月星紋ではないだろうか。月の形は三日月型と円形があるが、圧倒的に三日月型が多い。円形は月ではなく星として表現している紋蝶もある。細川家の家紋である「離れ九曜」などはその典型であろう。三星に一文字で有名なのが「渡辺星」と毛利の「長門三星」がある。一文字が渡辺氏は三星の下にあり、長門三星は上にある。こんな説もある・・・一文字が渡辺氏の祖である「渡辺綱」で三星が「坂田金時」「碓井貞光」「卜部季武」の三人を表している、というもので、源頼光の四天王であることを意味する。いろいろな説があるものですね。月星紋で有名なのは千葉氏紋でしょう。日はを「天照大御神」、月は、「月読命」をを表している。菊紋以前の天皇家の紋章である、と記載してある本もありました。太陽も月も星も神秘的ですね。

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2020年7月 4日 (土)

51 日足紋

日の光を足と読んだところが面白い紋である。本来は「日紋」であったらしいが多くの武将が使用したために区別をつけるために日差しを加えたらしく、ほとんどが日足紋もなっている。本来、太陽を尊ぶ民族であるので太陽神・日輪崇拝から用いられたとも言われる。武田信玄屋上杉謙信、織田信長なども旗印に用いたが、家紋にするまでには至らず、なぜか九州の大名に多く用いられている。肥前の竜造寺家・大村氏そして豊後日田木下氏、筑後の草野氏など。江戸時代には鍋島氏も使用した。

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2020年7月 2日 (木)

50 村上義清

「戦国武将ランキング」という雑誌を読んでいて思ったこと。上位にランクされた武将は負けたことがないのだろうか?少し調べてみる気に(暇に任せて(* ´艸`)クスクス)
今回は3位にランクインした「甲斐の虎」と言われた名将武田信玄。信玄は70回以上出陣し負けたのは数回である。5回という説と6回という説がありましたが、信濃の豪族「村上義清に2回(3回)負けているのです。ほかの負けは上杉謙信2回、北条氏政1回とありました。
村上義清・・埴科郡を中心に佐久・小県・更科・高井などを領有する信濃の豪族であった。信玄の父・信虎と密約し小県の海野氏を上野に追放するが、信玄の代になって武田と対立するようになる。
戦術に長けた武将で小県に攻め込んできた信玄を「上田原の戦い』で破り、さらに2年後には砥石城に迫る信玄の軍を撃退する。「砥石崩れ」と呼ばれる屈辱を味わせた。そして、3年後真田幸隆の策略で同盟者を切り崩され,本拠の葛尾城を捨てて越後へ逃れ、上杉謙信の配下となり、武田と戦うが本拠地復帰はならず越後の根知城で病没する。上杉謙信は義清らの要望を聞き信濃北部への出兵を繰り返したのが原因で、あの有名な川中島の決戦が再三繰り広げられることになる。

武田信玄    (武田菱)村上義清(丸に上の字)真田幸隆(六文銭)上杉謙信(上杉笹)

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2020年6月 7日 (日)

49 八咫烏

武天皇東征の時、熊野から大和に入る際の道案内として先導したとされる3本足の大鳥のこと。神の使い、太陽の化身ともいわれ、日本サッカー協会のシンボルとしても知られる。この八咫烏を背中に背負って活躍したのが雑賀孫一である。紀ノ川下流を本拠とした士族で,雑賀党の指導者の一人で鉄砲の名手である。戦国時代鉄砲が戦の主役になるころ、どの大名も雑賀衆屋根来衆のような鉄砲集団を味方にしようと躍起になる。

雑賀孫一は気に入らぬ大名とは好条件でも味方にならず、強大な勢力にも対等に渡り合った。石山合戦では本願寺方の大将として、織田信長に抵抗する。単身、信長を狙ったが惜しくも逃してしまう。
本願寺と信長との間に和議が成立すると,雑賀の内部で分裂が起こり孫一は雑賀の地を追われる。

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2020年5月29日 (金)

48 歌舞伎

庶民に広がった歌舞伎の紋。江戸時代、歌舞伎は庶民にもっとも人気がある娯楽であった。
任子の役者が舞台で使用した紋が庶民の間で流行り、その紋の入った品々を買い集めたそうだ。この傾向は現代でも同じで、アイドルと同じ服装、同じ髪型にという人は大勢いるだろう。庶民の間に家紋が広がったきっかけかもしれない。
女形の役者として有名な岩井半四郎の大和屋は「丸に三ツ扇」大名跡成田屋の市川團十郎は「三枡」スーパー歌舞伎を立ち上げた市川猿之助の 澤瀉屋は「立ち沢潟」その他、播磨屋は「変わり揚羽蝶」音羽屋は「重ね扇に抱き柏」高麗屋は「四つ花菱」など。

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2020年5月16日 (土)

48 賤ヶ岳

天下取りに欠かせなかった要となる戦が必ずあったはず。織田信長には今川家との桶狭間の戦いや武田家を打ち破った長篠の戦い、徳川家康には関ヶ原の戦いや大坂の陣が。
では、豊臣秀吉には・・・明智光秀との山崎の戦いだろうか?
れとも柴田勝家との賤ヶ岳の戦いだろうか?
個人的には、織田家相続問題を引きずった信長の後継者選びともいえる賤ヶ岳の法が天下取りの戦のように思える。織田家の後継を巡り開かれた清洲会議において、信長の嫡孫・算法師を推す秀吉と、信長の三男・信孝を推す勝家が対立。丹羽長秀、池田輝興などが秀吉方についたので勝家が折れて問題は決着したが、両者の関係は今間台上に悪化してしまう。
勝家と信孝は滝川一益を味方にし、秀吉に対抗しようとした。伊勢の諸城を巡る攻防から両者の争いが大きくなる。膠着状態が津ずく中で、背後を襲う動きを見せた信孝を牽制すべく大垣城を攻めるべく秀吉が動く。その隙を突いて柴田郡の佐久間盛政が勝家の意見を顧みず戦闘を始める。最初の勝ちに乗じて攻め続ける盛政だが、大垣から戻った秀吉に追われ敗走してしまう。その後、前田利家など多くの寝返りがあり、勝家は居城の越前北ノ庄城で籠城して抵抗したが秀吉の総攻撃に耐えられずお市の方と自刃して果てた。この時活躍した秀吉の子飼いの武将7人を「賤ヶ岳の七本槍」と呼ぶ。

加藤清正(蛇の目) 福島正則((福島沢瀉) 加藤嘉明(下り藤) 片桐且元(片桐違い矢)脇坂安治(輪違い) 平野長泰(丸に三つ鱗) 糟屋武則(三盛三つ巴)

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2020年5月11日 (月)

47 姫路城

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昭和26年に国宝に指定され、その後世界文化遺産に登録された姫路城。誰もが知っているように別名を白鷺城といいます。現在の天守は関ヶ原の戦いの後で城主になった池田輝政(備前蝶)によって完成された。五層7階の大天守と東小天守、西小天守そして乾小天守の3つの小天守と渡櫓で連結された連立天守である。白鷺城と呼ばれる所以は白い外壁だけでなく、連立された姿が白鷺が羽を広げたように見えるから共言われている。

姫路城を本的に城に改修したのは黒田氏(黒田藤)である。そして秀吉の中国攻めの債に黒田官兵衛より秀吉(五七の桐)に譲り渡した。この時から秀吉と官兵衛の天下取りの始まりであったのではないか。

その他の主な姫路城主
酒井家(剣方喰) 越前松平家(右三つ巴)奥平松平家(沢瀉)本多家(右割れ立ち葵)榊原家(源氏車) 

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2020年5月10日 (日)

46 公家・清華家

公家の家格の一つで摂家に次ぐ名門で、太政大臣まで昇任できる家柄である。
村上源氏の久我氏(久我竜胆)藤原氏の伝法輪三条家(三条花角)西園寺家(左三つ巴)徳大寺家(徳大寺木瓜)今出川(掬亭)(糸輪に三つ楓)花山院家(杜若菱)大炊御門家(菱に方喰)の七家であったが、後に源の広幡家(十六葉裏菊)と藤原氏の醍醐家(下り藤)の二家が加わり九家となった。

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2020年5月 7日 (木)

45 公家・五摂家

摂家とは公家の最高位で、摂関・関白に任じられる家柄。藤原氏の流れを汲む家系である。藤原氏は政権を独占するために諸氏を排斥してきたが、内部で内紛があり、その結果として北家の良房が最初の摂政となり、その子の基経が最初の関白となる。その後は藤原氏でも北家によって独占される。鎌倉時代になると近衛家と九条家に別れ、さらに近衛家から鷹司家が、九条家から二条家と一条家が分かれた。この五つの家を五摂家と呼ぶ。
此の分立は執権北条氏が京都の公家をあやつるために対立させたともいわれている。

藤原氏(下り藤)近衛氏(近衛牡丹)九条家(九条藤)鷹司家(鷹司牡丹)二条家(二条下り藤)一条家(一条下り藤)

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