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2020年3月

2020年3月30日 (月)

33 家紋 器財紋

器財紋編で仏具に関する紋を紹を介しましたが、キリスト教に関する紋もあります。代表的なのは小西行長が使用した「花久留子」紋に代表されるクルス(十字架)を象った紋です。さらにキリスト教が禁止されたために、轡(くつわ)紋や桛(かせ)紋などに取り入れられ、意識的に用いられてきた。立花宗茂が用いて有名な祇園守紋もクルスに見立てられたものとされます。桛は紡いだ糸を巻き取る道具。HやXの形をしているので隠れキリシタンが十字架に見立てて使用下とされる。轡は馬の口にくわえさせる馬銜(はみ)と手綱をつなぐ金具。やはり隠れキリシタンが十字架の代わりに使用したとされる。祇園守は、祇園社(八坂神社)が配布するお守りを象ったもの。中央にある牛頭天皇之祭文を十字架に見立てて隠れキリシタンが使用した。

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十文字聻関する風習は日本全国にあるようで、足を怪我しないように、新しい靴は履く前に靴底に十字に火を当てるとか、子供が出かける前に額に指で十字を書くとか、これも安全を威の手のことでしょう。臼の下に藁を十字に敷いてついた餅を食べた妊婦は安産であるとか・・・まだまだたくさんありそうですね。

 

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2020年3月29日 (日)

32 島原の乱

天草の乱とも島原の一揆とも呼ばれる、江戸時代初期に起こった日本史上最大の内乱である。島原地方はキリシタン大名である有馬晴信の元領地である。領民もキリシタン信仰者が多く信仰も厚かった。そのためにキリシタン弾圧に反発しての一揆と捉えられがちであるが、始まりは有馬晴信の後の藩主である松倉重正による厳しい年貢の取り立てに反発したものであった。そして年貢を納められない農民に対してキリシタンからの改宗を強要した。改宗を拒んだキリシタン信者に対して拷問や処刑を行ったことから一揆がさらに大きくなっていったのである。同じころ肥後天草でも、重税とキリシタンの弾圧が行われていた。天草はキリシタン大名の小西行長の治めるところであった。小西行長が改易されたために大勢の浪人が発生し一揆を企てていた。

そして、キリシタン信者の間でカリスマ的な存在である天草四郎を一揆軍の総大将として決起するに至る。天草四郎16歳である。この乱の鎮圧1年半後にはポルトガル人が日本を追放され、鎖国が始まるのだが、島原の乱はやはり単純な農民一揆としては考えられないのであろうと思う。

主なキリシタン大名 有馬晴信(五瓜に唐花)小西行長(花久留子)高山右近(七曜) 蒲生氏郷(向い鶴) 大友宗麟(杏葉) 立花宗重(祇園守)

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2020年3月22日 (日)

31 松本城

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長野県松本市にある平城。昔は深志城といわれた。小笠原氏が武田家の支配から、旧領を回復した際に松本城と賞したとある。飾り気のない黒と白の外観から「烏城」とも呼ばれる。秀吉から任命された石川数正が入城し大規模な改築に取りかかるが、息子の康長の時に五層六階の天守閣が完成している。外見は五層だが場内に入ると六階という作りになっている。石川数正は徳川家康の家来で外交官のような立場にあったが、秀吉に仕えるようになってします。これは、家康との間でわざと大阪の秀吉の懐に入ったとも言われている。

天守は国宝に指定され、城跡は國の史跡に指定されている。天守が国宝に指定された城は松本城を始め姫路城・犬山城・彦根城・松江城の五つである。

松本城の主な城主 石川数正(笹竜胆) 小笠原秀政(三階菱) 戸田康長(離れ六星) 松平直政(丸に三つ葉葵) 堀田正盛(黒餅縦木瓜) 水野忠清(水に沢瀉)

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2020年3月19日 (木)

30 関ヶ原 その5 決戦

慶長5年9月14日、美濃国赤坂に家康着陣。家康は三成がいる大垣城ではなく居城である佐和山城を攻めるべく兵を西へ進める。三成はこの動きを見て大垣城を抜け出し関ヶ原に陣を張る。9月15日未明のことである。この動きを察知した家康は関ヶ原への出陣を命じる。ここに世紀の一戦が始まることとなる。一心一体の攻防が繰り広げられたが、小早川秀秋が離反し大谷吉継隊に打ちかかったことにより,戦局は一気に東軍の勝利へと傾いた。天下分け目の合戦は1日で勝敗が決まってしまうあっけなさであった。

激戦のさなかに西軍の主力部隊である毛利秀元の部隊は動くことなく時を過ごした。毛利家安泰を図り戦には参戦しないと東軍の黒田長政と密約した吉川広家の部隊が前にいたので動けなかったのでる。橘川広家葉毛利家の分家に当たり、毛利本家の安泰を考慮しての行動であった。

小早川秀秋の離反により、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長など続いて敗れ去り、三成も戦場を離れる結果となてしまう。そんな中で。最後まで踏みとどまったのが島津義弘率いる薩摩藩であった。島津隊は多くの犠牲者を出したが、敵中突破を果たしたのである。東軍としては島津義弘を打ち損じたことよりも、この時受けた傷が元で井伊直政を失うことになってしまうほうが痛かったであろう。9月15日夕刻に,世に言う天下分け目の戦いが、東軍の勝利によって終わった。

西軍主な武将 小西行長(花久留子)長宗我部盛親(七つ方喰)大谷吉継(対い蝶)島左近(丸に三つ柏)島津義弘(丸に十の字)

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2020年3月10日 (火)

29 関ヶ原 その4 密約

三成の挙兵を知るや家康は上杉討伐をやめ、伊達政宗に上杉景勝の動きを止めるように指示し西へ向かう。当然政宗は関ヶ原に参戦していない。百万石を約束されていたが結果としては守られなかった。東軍の諸将は福島正則の居城である清洲城に集結し、福島正則、池田輝政、黒田長政らが織田秀信の岐阜城などを落とし家康の着陣を待っている。家康は秀忠に徳川の主力部隊をつけて信濃から関ヶ原に向かわせたが、真田昌幸の策略により関ヶ原の戦に間に合わないという失態をしてしまう。しかし、これは万が一当軍が敗れた場合でも徳川の主力部隊は残るという家康の考えもあったのではないかと・・・間に合わなくともよいという考えと、徳川の主力がいなくともても勝てると踏んでいたかはわからないが・・・
三成挙兵後関ヶ原での合戦が始まるまで各地で小競り合いが行われていたが、水面下での密約も多く両陣営の間で繰り広げられた。なかでも黒田長政の活躍が関ヶ原の勝敗を分けたといえる。西軍の名目上の大将である毛利輝元の主力である吉川広家に領国安堵と引き換えに不参戦を約束させたのである。さらに戦が膠着状態の中、小早川秀秋に裏切りの約束を守らせたのも黒田長政である。この戦功により長政は大大名となるのである。
毛利輝元(三つ星に一文字・長門三つ星) 吉川広家(丸に三つ引き) 小早川秀秋(丸に違い鎌)

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2020年3月 9日 (月)

28 家紋 文様編⓶

八坂神社の神文や織田家の家紋(織田木瓜)で有名な木瓜紋は本来「瓜(か)」紋と「木瓜」紋に分かれる。瓜紋の基本は、瓜と環と唐花が組み合わされた「五瓜に唐花」が基本である。外枠の瓜の数によって三つ瓜,八つ瓜などと呼ばれるが、四つ瓜の場合は「四方木瓜と呼ぶ。その「四方木瓜」を菱型にしたものが「木瓜」である   。な ので正確にいうと「織田木瓜」と呼ぶのはおかしいと思う人もいるかもしれません。

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環とは,箪笥や抽斗の取っ手のこと。

唐花は実在の花ではなく、中国伝来の花文様である。五弁のものを「唐花」と呼び、四弁の模様を「花角」そして花角を菱型にしたものを「花菱」と区分けしている。これらの紋は多くの公家が使用した模様である。

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27 家紋 文様編①

古くから描かれる幾何学文様などを紋章化したもの。
太鼓などに描かれているオタマジャクシのような模様を「巴紋」という。古くから世界中でにた模様が見られ、日本でも縄文時代から痕跡が残る。巴紋の由来は、勾玉・雲・鞆絵・胎児等々諸説あるが、神社や寺院で見られる巴は神楽が発祥出、民家などの瓦に刻まれる巴は「水の厄いを表し、防火の意味が込められているそうです。回転の方向により「右巴」と「左巴」があります。巴の円い部分を「頭」、細い部分を「尾」と呼びます。絵師の筆の運びで頭から尾にかけて進行方向が時計回りを「右巴」、反時計回りを「左巴」と呼びます。種類も巴の数の違いや、他の文様と暈なたものなどあり。

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鞆・・弓を射る時、左手首の内側につけ、弦が釧(くしろ・装飾品)に触れるのを防ぐ丸い革製の道具。

 

 

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2020年3月 3日 (火)

26 関ケ原その3 会津征伐

家康は大軍を率いて大阪を出て会津へ向かう。その間隙をついて光成が挙兵して佐和山城を出て大阪へ。天下を二分する大決戦の始まりである。このとき家康には本気で上杉征伐を考えていたわけではなく、光秀を誘い出す手段として大阪を離れたのである。光秀の大阪入りにより、家康のもとで政務をしていた五奉行のうち長塚正家、増田長盛、前田玄以が光成に応じた。光成らは家康の罪(内府違いの条)を全国の大名に送った。五大老の毛利輝元、宇喜多秀家が応じる。五奉行の一人浅野長政は高台院(秀吉の妻)、利家亡き後の前田家は母・芳春尼がが家康に付くようにとの意見を入れて東軍に。全国の諸大名は高みの見物とは行かなくなり、立場を明確にする必要に迫られる。結論を言ってしまえば東軍が勝って天下は家康の手に落ちるのだが、この時点の大義名分は、豊臣秀頼を豊臣家臣団の争いから守るというものであった。対する光秀側も家康から豊臣家と秀頼を守るというもので、どちらの大義名分も秀頼を守るという点では同じであったと言うこと。そして、西軍の伏見城攻撃を皮切りに天下を二分する関ヶ原の決戦が近づいてくる。

長束正家(花菱) 増田長盛(枡) 前田玄以(橘) 浅野長政(丸に違い鷹の羽・浅野鷹の羽)

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家康は鳥居元忠を城代としてわずかばかりの兵を残して大阪を留守にした。わざと隙を見せることによって東に付くか西に付くか、諸大名の動向を確かめて一気に決着をつける考えのようであった。加藤嘉明(下がり藤)、池田輝政(備前蝶)、細川忠興(離れ九曜)、黒田長政(藤巴)、福島正則(沢瀉)、山内一豊(土佐柏)など多くの豊臣恩顧の大名が家康に味方したのは三成に武将たちに対しての気配りがかけていたのが原因ではなかったか。

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