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2020年4月

2020年4月30日 (木)

40 戦国三大忠臣・片倉景綱

伊達家の片倉景綱(九曜) 上杉家の直江兼続(三盛亀甲に三つ葉)そして毛利家の小早川隆景 (左三つ巴)。この三人が戦国の三大忠臣としてあげられている。

片倉景綱・・伊達家16代当主照宗の小姓となった景綱は、その後9歳になった嫡男・政宗の近侍となる。その後、正宗の奥州制覇に向けての、大内攻め、三本松攻め、人取橋の戦い、摺上原の戦いなどに参戦し、秀吉の北条攻めに動かぬ政宗を恭順/参戦させたとされる。家や藩主を守るためなら換言も辞さずという思いが強い武将であった。秀吉も家康も認める能力の持ち主で、秀吉などは直臣になれと勧めたが断られている。家康に至っては、「正宗に劣るところはないが、ただ一つ景綱のような補佐役がいないことが劣っている。」と評した。主君が道を違えそうになると直言し、全身全霊で主君を守った補佐役であった。

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2020年4月27日 (月)

39 戦国武将 梟雄

戦国時代、勝負のためなら手段を選ばず・・という、謀略策謀に長けた武将も多く出た下克上の時代。日本三大梟雄と呼ばれるのが松永久秀(蔦)・斎藤道三(二頭波)・宇喜多直家・北条早雲である。三大梟雄といいながら4人の武将の名が上がっているが、二つの説があり松永久秀と斎藤道三はどちらの説にも登場する。宇喜多直家と北条早雲は片方の説には登場しない。そのことからして松永久秀と斎藤道三が梟雄中の梟雄なのであろう。

松永久秀の出身は阿波とも近江、摂津とも言われており不明である。三好長慶の家臣から大和の戦国大名となる。長慶亡き後は三好三人衆と政権を二分するほどになる。信長上洛の折はすぐに臣下となるが、武田信玄などの信長包囲網が惹かれると信長を裏切って敵に回るが、信玄が亡くなり信長が包囲網が敗れると、すぐに降伏。久秀の能力を買っていた信長は許すが、上杉謙信について再度裏切った久秀を居城の信貴山城にて滅ぼす。

道三の父が、守護職・土岐氏の執権であった長井氏仕え、やがて長井氏を討って長井性を名乗り稲葉山城を居城とした。その後、道三が現れ土岐氏を滅ぼし国主となった。道三は油の行商人であったがその才能と武芸が認められて武士となった。守護代の斎藤利良が没すると、そのまま家督を継ぎ、斎藤新九郎利政と称し、美濃を手中に収めるべく守護職の土岐頼芸を攻める。頼芸は織田信秀や朝倉孝景を頼ったが破れ、美濃は道三の手に落ちた。

梟雄の話になると必ず出てくる二人ですが、この時代多かれ少なかれ誰もが同じようなことをしていたのではないかと思う。梟雄のように思われないだけで、家康、政宗、秀吉なども・・・

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2020年4月25日 (土)

38 戦国武将 カリスマ

関ヶ原の戦も終盤に来て東軍の勝利が見えたとき、わずか数百の兵で家康の本陣を目掛け突進に敵中突破を成し遂げた薩摩藩・島津義弘。兵たちは義弘を逃がすためだけに、義弘の逃げ道を作るためだけに敵陣へ突っ込んでいった。島津家の当主は長男の義久であったが、実直で義理堅い次男の義弘のほうが渦中での信望は厚かった。大友家との耳川の戦い、秀吉との戸次川の戦い、さらに朝鮮出兵と戦いの連続であった義弘の最大の危機が関ヶ原の戦いであった。西軍の諸将が敗走する中で義弘の下した結論は敵中突破であった。自らの命を、義弘を救うために惜しげもなく投げ出す軍団は他に類を見なかったであろう。武勇と胆力で絶大な信頼を得ていたのである。武田信玄や上杉謙信と並び称される戦国武将である。島津家というより薩摩藩にはこのようなカリスマ性を持った人物についてゆくという傾向が強かったのだろう。幕末四健康の一人・島津斉彬、そして維新の時の西郷隆盛と。

明治維新に関わった主な薩摩藩士

島津家(丸に十字) 西郷隆盛(菊の葉に菊・違い鷹の羽) 大久保利通(三ツ藤巴) 山形有朋(丸に三つ鱗) 大山巌(丸大山巌 に隅立四ツ目) 黒田清隆(黒田藤)

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2020年4月23日 (木)

37 戦国大名・軍事力

桶狭間の奇襲で今川義元を破り天下取りのスタートを切った織田信長であったが、最後は明智光秀の奇襲で本能寺にて命を落とす。少人数で大軍を破ったことから戦上手と言われるが、奇襲戦法は桶狭間の戦のみでその後の戦は相手を上回る兵力で万全の体制を整えてから負けない戦に徹した。負けたら終わりと言うことを念頭に置いた武将である。そのことを思うと本能寺の変は油断と奢りの何物でもないと思う。

天下統一まであと一歩というところであった信長は優れた統率力を持った家臣に数カ国を任せる軍団制を作り、効率的な軍事行動を展開可能にした。さらに長槍、鉄砲と新しい武器の活用に力を注いだ。多くの兵力が農民である時代の戦であるので、なるべく相手の兵と近づかない工夫をしたと思える。鉄砲の優位性に早くから気づいた先を見る目は誰よりも優れていた。長篠の戦いで最強の武田騎馬軍を破ったことで知られる。さらに、毛利藩についた村上水軍との攻防で苦戦を強いられたので、燃えない大きな鉄甲船を作らせ実用化し、二度目の木津川での争いで勝ちを収めた。軍事力に最も優れた武将ではないでしょうか。

主な軍団長・家臣

明智光秀(水色桔梗) 羽柴秀吉(五の桐) 柴田勝家(二(つ雁金) 丹羽長秀(筋違) 滝川一益(丸に木瓜) 荒木村重(抱き牡丹) 前田利家(加賀梅鉢) 佐久間信盛(丸に三つ引き) 森蘭丸(鶴の丸)

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2020年4月21日 (火)

36 応仁の乱

室町将軍家や有力大名家の家督争いが講じて内乱になり、京都から全国に広がる。応仁元年に勃発したので応仁の乱と呼ぶ。
室町幕府の八代将軍足利義満は政治に対する熱意失い、すべてを管領である細川勝元にすべてを委ねた状態であった。次期将軍をを巡っては弟の義視が有力とされていたが、義政の正室である日野富子が嫡子・義尚を出産したことによって家督争いが起こる。
この争いに便乗するかの如く、有力大名の斯波氏と畠山氏でも家督をめぐる争いが生じた。そして大名たちは義視派と義尚派に別れて対立する。義視派は細川勝元・斯波儀敏・畠山政長

義尚派は山名宗全・斯波義廉・畠山義就・日野富子

畠山政長が管領の座を追われ、失脚中の義就が宗全によって復活し京に戻ってくる。これに政長怒り御霊社の争いが起こり、全国の大名が京都に集まり京都は戦火に包まれ、そのまま全国へ広がってゆく。その中で、双方の主力である細川勝元と山名宋全が亡くなり、上洛していた大名たちはそれぞれの国へ戻るが、戻った地域で争いは続いてゆく。最終的に九代将軍は義尚になるが、長い戦いや富子の画策によって室町幕府や管領の権威は地に落ち、足利将軍の最後の末裔が北条早雲に滅ばされ、それを決起として戦国時代へと入ってゆく。

足利家(丸に二つ引き) 細川勝元(離れ九曜) 山名宋全(丸の内に二つ引き) 畠山氏(丸の内に二つ引き) 斯波氏(丸の内に二つ引き) 

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2020年4月18日 (土)

35 建造物編

家建築装飾に懸魚(げぎょ)があります。日本や中国の建築で、屋根の妻の破風の下にあって棟木や桁の先端を隠す飾り板のこと。簡単なものは五角形や六角形の切り懸魚というものから、社寺の建物では猪目懸魚という和様のものまであります。
破風の途中で桁を隠す懸魚と、破風の中央につける懸魚があります。
火災を避けrという意味で、水に関係のある魚を象ったともいわれますが、魚は腐りやすいので武家には人気がなかっといわれます。

長押や懸魚・扉などの釘隠しなどに用いるものに六葉(ろくよう)という金具があります。六枚の葉を六角形に模様化したもの。

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2020年4月 5日 (日)

34 仏具

キリスト教のクルスを象った家紋を前回載せましたが、日本の仏具を象った家紋も多くありますので、主なものを紹介します。
熨斗紋ー熨斗鮑という縁起物だったが、次第に簡略化され紙が用いられるようになった。
半鐘紋ー寺院の層が自国を知らせるのに用いた。
弊子紋ー酒を入れて神前に供えた。
結綿紋ー真綿の中心を束ねたもので、神前供えや、婚礼の進物として祝い事に用いられた。
輪宝紋ー仏教の天輪王が用いる武器。卍とともに仏教のシンボル。
梶紋ー葉が神前の供物の器として使用された。諏訪明神の神文として有名。
金輪紋ー法具の錫につけて音を鳴らし厄除けとして用いた。
弊紋ー神道の祭祀で用いる御幣のこと。柴田勝家が馬印として用いた。
宝珠紋ー願い事を叶えるという玉。

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