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2020年5月

2020年5月29日 (金)

48 歌舞伎

庶民に広がった歌舞伎の紋。江戸時代、歌舞伎は庶民にもっとも人気がある娯楽であった。
任子の役者が舞台で使用した紋が庶民の間で流行り、その紋の入った品々を買い集めたそうだ。この傾向は現代でも同じで、アイドルと同じ服装、同じ髪型にという人は大勢いるだろう。庶民の間に家紋が広がったきっかけかもしれない。
女形の役者として有名な岩井半四郎の大和屋は「丸に三ツ扇」大名跡成田屋の市川團十郎は「三枡」スーパー歌舞伎を立ち上げた市川猿之助の 澤瀉屋は「立ち沢潟」その他、播磨屋は「変わり揚羽蝶」音羽屋は「重ね扇に抱き柏」高麗屋は「四つ花菱」など。

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2020年5月16日 (土)

48 賤ヶ岳

天下取りに欠かせなかった要となる戦が必ずあったはず。織田信長には今川家との桶狭間の戦いや武田家を打ち破った長篠の戦い、徳川家康には関ヶ原の戦いや大坂の陣が。
では、豊臣秀吉には・・・明智光秀との山崎の戦いだろうか?
れとも柴田勝家との賤ヶ岳の戦いだろうか?
個人的には、織田家相続問題を引きずった信長の後継者選びともいえる賤ヶ岳の法が天下取りの戦のように思える。織田家の後継を巡り開かれた清洲会議において、信長の嫡孫・算法師を推す秀吉と、信長の三男・信孝を推す勝家が対立。丹羽長秀、池田輝興などが秀吉方についたので勝家が折れて問題は決着したが、両者の関係は今間台上に悪化してしまう。
勝家と信孝は滝川一益を味方にし、秀吉に対抗しようとした。伊勢の諸城を巡る攻防から両者の争いが大きくなる。膠着状態が津ずく中で、背後を襲う動きを見せた信孝を牽制すべく大垣城を攻めるべく秀吉が動く。その隙を突いて柴田郡の佐久間盛政が勝家の意見を顧みず戦闘を始める。最初の勝ちに乗じて攻め続ける盛政だが、大垣から戻った秀吉に追われ敗走してしまう。その後、前田利家など多くの寝返りがあり、勝家は居城の越前北ノ庄城で籠城して抵抗したが秀吉の総攻撃に耐えられずお市の方と自刃して果てた。この時活躍した秀吉の子飼いの武将7人を「賤ヶ岳の七本槍」と呼ぶ。

加藤清正(蛇の目) 福島正則((福島沢瀉) 加藤嘉明(下り藤) 片桐且元(片桐違い矢)脇坂安治(輪違い) 平野長泰(丸に三つ鱗) 糟屋武則(三盛三つ巴)

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2020年5月11日 (月)

47 姫路城

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昭和26年に国宝に指定され、その後世界文化遺産に登録された姫路城。誰もが知っているように別名を白鷺城といいます。現在の天守は関ヶ原の戦いの後で城主になった池田輝政(備前蝶)によって完成された。五層7階の大天守と東小天守、西小天守そして乾小天守の3つの小天守と渡櫓で連結された連立天守である。白鷺城と呼ばれる所以は白い外壁だけでなく、連立された姿が白鷺が羽を広げたように見えるから共言われている。

姫路城を本的に城に改修したのは黒田氏(黒田藤)である。そして秀吉の中国攻めの債に黒田官兵衛より秀吉(五七の桐)に譲り渡した。この時から秀吉と官兵衛の天下取りの始まりであったのではないか。

その他の主な姫路城主
酒井家(剣方喰) 越前松平家(右三つ巴)奥平松平家(沢瀉)本多家(右割れ立ち葵)榊原家(源氏車) 

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2020年5月10日 (日)

46 公家・清華家

公家の家格の一つで摂家に次ぐ名門で、太政大臣まで昇任できる家柄である。
村上源氏の久我氏(久我竜胆)藤原氏の伝法輪三条家(三条花角)西園寺家(左三つ巴)徳大寺家(徳大寺木瓜)今出川(掬亭)(糸輪に三つ楓)花山院家(杜若菱)大炊御門家(菱に方喰)の七家であったが、後に源の広幡家(十六葉裏菊)と藤原氏の醍醐家(下り藤)の二家が加わり九家となった。

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2020年5月 7日 (木)

45 公家・五摂家

摂家とは公家の最高位で、摂関・関白に任じられる家柄。藤原氏の流れを汲む家系である。藤原氏は政権を独占するために諸氏を排斥してきたが、内部で内紛があり、その結果として北家の良房が最初の摂政となり、その子の基経が最初の関白となる。その後は藤原氏でも北家によって独占される。鎌倉時代になると近衛家と九条家に別れ、さらに近衛家から鷹司家が、九条家から二条家と一条家が分かれた。この五つの家を五摂家と呼ぶ。
此の分立は執権北条氏が京都の公家をあやつるために対立させたともいわれている。

藤原氏(下り藤)近衛氏(近衛牡丹)九条家(九条藤)鷹司家(鷹司牡丹)二条家(二条下り藤)一条家(一条下り藤)

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2020年5月 4日 (月)

44二つの家紋

徳川将軍家剣術指南役の柳生家には二つの家紋があります。二羽飛び雀と笹の「柳生笹」そして笠が二つ並んだ二階笠「柳生笠」です。もともとは柳生笠でしたが、ある事件が元で笠の家紋も使うようになりました。その事件というのが「坂崎出羽守の乱」です。坂崎出羽守は宇喜多忠家の長男として生まれ、浮田秀家に仕えその後徳川家康に仕えています。関ケ原の戦いで功を認められ石見・津和野藩主となる。浮田秀家、明石掃部の従弟でもあります。

坂崎の乱ですが、大阪城落城の折徳川家康が、豊臣秀頼の妻となっている孫の千姫を助けよと、「助けた者に千姫を嫁にやる。」と約束してしまうことから始まる。そして猛火の中から千姫を救い出したのが顔に大火傷をうけた坂崎出羽守であった。約束通り千姫と結婚させろと出羽守は家康に迫るが、顔に火傷を負った出羽守を千姫が嫌い、話が進まないうちに家康が死去。二大将軍・秀忠は家康の約束を無視し、重臣の本多忠刻のもとに嫁がせることにした。その出立時を狙って千姫を奪おうとして江戸市中で兵をあげたが捕らえられてしまう。と、いうのが歌舞伎や映画でよくみられる話ですが、・・・・家康から千姫の婚姻先の選定を依頼されていた出羽守は公家との婚姻をまとめたが、急遽本多家への縁談がまとまったために面目を潰された出羽守が千姫を奪い取ろうとして捕らえられた。という話もあります。所説いろいろありますが、幕府の処置に我慢できずに筋をとした武士らしい武士ではないかと思います。

捕らえられた後、家督を没収すると多くの家来が路頭に迷うということ、坂崎家を残すために責任を取って自刃しろ、と説得にあたったのが柳生宗矩であった。出羽守は納得して自刃するが、幕府は坂崎家を取り潰してしまった。宗矩は幕府に願い出て坂崎家の紋を使うことを願い出て許される。出羽守と宗矩は旧知の間柄であった。 

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2020年5月 1日 (金)

42 戦国三代忠臣 小早川隆景

毛利元就には隆元・元春・隆景  という三人の息子がいた。本家毛利家葉嫡男の隆元が継いだ。次男元春は吉川家に、三男隆景は小早川家にそれぞれ養子に入る。欲を出さずに兄弟力を合わせれば強くなれるという「三本の矢」の話は有名です。この教えを守り毛利本家を中心に中国地方最大の軍団になった。吉川・小早川を「毛利両川(りょうせん)といい、元就の中国統一に貢献しました。隆景は強力な水軍(村上水軍)を率い山陽方面の政治・軍事の中心として外交も務めた。山陰方面は吉川家が中心となっていた。秀吉の中億攻めにあくまで抗戦という中で、情勢を冷静に見極めて和議に持ち込むべく安国寺恵瓊を使者に立てる。高松城を水攻め聻していた秀吉も本能寺の変を知り、高松城主・清水宗治の切腹で和議を結び、中国大返しをおこなった。和議を結んだ後信長の死を知った元春が今なら勝てると追撃を主張したが、約束は守ると言って仁義を重んじた武将である。

毛利家(長門三つ星・長門沢瀉)吉川家(丸に三つ引き)小早川家(左三つ巴)安国寺恵瓊(武田菱)

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41 戦国三大忠臣 直江兼続

上杉景勝を最後まで支えた執政が直江兼続である。直江兼続は10代半ばに景勝の近習として仕えるようになる。身分は低いが頭脳明晰をもって景勝に可愛がられた。上杉謙信亡き後の後継者争い以降頭角を現し、景勝の意向により長尾家の養子となる。謙信には実子がなく養子が二人いた。長尾家から迎えた景勝と北条家絡む変えた景虎である。     謙信は後継者を指名しないで急死したために、班が二つに分かれて争った。これを「御館の乱」と呼ぶ。兼続は景勝政権の実権を握り、内政・外交に力を発揮する。秀吉や家康からも高い評価を得た。関ヶ原の戦いの前に、家康から上洛をするようにとの催促が、景勝でなく兼続聻送られたが、その返書が挑発する内容で有名な「直江状」である。関ヶ原の戦の後、大幅な削封で米沢へ移るが、景勝を見捨てることなく米沢で新田開発や川の工事などに力を尽くし、現在の米沢市の基礎を築いたとされる。

有名な兜の「愛」の字愛染明王」の愛からとったと言われる。

上杉家(上杉笹)米沢上杉家(米沢笹)直江兼続(三盛亀甲に三つ葉)

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