« 52 月・月星紋 | トップページ | 54 団扇と扇 »

2020年7月10日 (金)

53 会津若松城

鶴ヶ城とも呼ばれる。城の歴史は古く、南北朝期、蘆名直盛がこの地に黒川城を気づいたのが始まり。14代続いた蘆名氏を破って伊達政宗が入城するも、翌年豊臣秀吉の欧州征伐でこの地を追われる。代わりに藩主となったのが蒲生氏郷である。7層の天守閣、本丸などを内堀で囲み、二の丸、三の丸を作り高い城壁と深い堀をめぐらす大改修をしたのが秀吉期待の氏郷で名も若松譲と改めた。その後、上杉景勝や加藤嘉明)と変わり、嘉永20年に保科正之が藩主になり保科氏は松平に改名し松平容保で幕末をむかえる。戊辰戦争のときの白虎隊の悲劇で知られる。名門・蘆名氏(丸ノ内に三つ引き)から伊達氏(仙台笹)蒲生氏(対い鶴)上杉氏(上杉笹)加藤氏(下り藤)と名高い武将が続き、日本史上、屈指の名君と呼び声高い保科正之(平九曜)、そして最後は松平氏(三つ葉葵)が会津の藩主であった。

保科正之・・二代将軍・秀忠の妾腹の子であり、三代将軍・家光の異母弟、さらに家康の孫にあたる人物である。社倉を建て領民を保護し、儒学を好んだ。正之を表舞台に出したのは家光であり、手腕を買われ四代将軍・家綱にも仕えた。江戸城の天守は3度も建て直されていた。そして、3度目の天守は明暦の大火で焼失した。家継は天守再建を計画したが、江戸の町の再建が優先されねばいけないと判断し、天守は二度とそびえることはなかった。「眺望を楽しむだけの天守に材を費やすのは無駄」と提言した正之の言葉が大きな影響を与えたとされている。

2018_0611_100624cimg0393_20200710182401Photo_20200710182601 Cimg14272018_0611_100250cimg0374

Photo_20200710182901Cimg1426Photo_20200710183201 

 

 

« 52 月・月星紋 | トップページ | 54 団扇と扇 »

歴史」カテゴリの記事

コメント

nyar-nyarさん ( ^o^)ノこんにちは埼玉県は今も毎日増え続けています。
自分は大丈夫と根拠のない自信家の方が多いのかもしれません。
感染すれば家族や特に子供にも・・・
自分も休業状態が続いています。
やはり緊急事態宣言解除が早すぎたのでしょうね。

投稿: kazu | 2020年7月20日 (月) 14:44

こんばんは
お元気ですか?
旅行好きの私ですが鶴ヶ城は行ったことがありません。
多分これからも行くことは無いと!
 旅行に飽きたって思えて予約もキャンセルしたのが
コロナが危なくなった頃でした。
1都3県はやばいことになってます。

投稿: nyar-nyar | 2020年7月15日 (水) 20:51

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 52 月・月星紋 | トップページ | 54 団扇と扇 »